LOGINその日の午後。
エレノアが自室で本を読んでいると、扉が控えめに叩かれた。
「エレノア様、リリアーナ様がお見えです」
侍女の言葉に、エレノアは本から顔を上げた。
――来た。
前の人生でも、リリアーナは結婚の翌日に訪ねてきた。
あのときは、昨夜のことを謝りたいと言われたのだった。
そして、エレノアが何も言えずにいると、リリアーナは涙を流し始めた。
自分のせいでお兄様とエレノア様が不仲になってしまった、と。
結局、エレノアのほうが彼女を慰めることになったのだ。
なんと馬鹿げた話だろう。
「お通しして」
エレノアは静かに告げた。
ほどなくして、淡い桃色のドレスをまとったリリアーナが姿を現した。
柔らかな金色の髪を揺らし、心配そうに眉を下げている。
「エレノア様……!」
リリアーナは駆け寄ってきた。
「ごめんなさい。私のせいで、お兄様と喧嘩をなさったのでしょう?」
「喧嘩?」
「ええ。お兄様が、とても怒っていらしたから……」
リリアーナは悲しそうに目を伏せた。
「昨夜、私が具合を悪くしてしまったばかりに……。お兄様は、ずっと私についていてくださったの。エレノア様に申し訳なくて……」
「そう」
エレノアは短く答えた。
リリアーナは、少し戸惑ったようだった。
「エレノア様……?」
「具合はもうよろしいの?」
「え、ええ。お兄様が一晩中そばにいてくださったおかげで、すっかりよくなりましたわ」
「それはよかったわ」
エレノアは微笑んだ。
「では、今夜もお兄様にそばにいていただいたらいかが?」
「……えっ?」
「あなたは身体が弱いのでしょう? また具合が悪くなってはいけないもの」
リリアーナは目を瞬かせた。
「でも……エレノア様は?」
「私は大丈夫よ」
「ですが、お兄様はエレノア様の旦那様ですし……」
「ええ。けれど、あなたが大切なのでしょう?」
エレノアは、まっすぐにリリアーナを見つめた。
「でしたら、私のことは気になさらなくて結構よ」
リリアーナの表情が、わずかに曇った。
ほんの一瞬のことだった。
すぐに、いつもの柔らかな微笑みが戻ってくる。
「エレノア様は、本当にお優しい方なのですね」
「そうかしら」
「ええ。でも……私、エレノア様に嫌われてしまったのではないかと心配で……」
リリアーナの瞳が潤んだ。
ああ、これだ。
エレノアは心の中でため息をついた。
前の人生では、この涙を見るたびに罪悪感を覚えた。
自分が嫉妬するから、リリアーナを傷つけてしまうのだと。
だが、今は違う。
「どうして、そう思うの?」
「だって……お兄様が私のお部屋で過ごしたことを、エレノア様は怒っていらっしゃるのでしょう?」
「怒っていないわ」
「本当に……?」
「ええ」
エレノアはにっこりと微笑んだ。
「むしろ、ありがたいと思っているくらいよ」
「……ありがたい?」
「そう。おかげで、昨夜はゆっくり休めたもの」
リリアーナは言葉を失った。
どうやら、こんな返事は予想していなかったらしい。
「ですから、今後もどうぞ遠慮なさらないで」
エレノアは穏やかに続けた。
「ヴィンセント様とお好きなだけお過ごしになってくださいませ」
リリアーナの顔から、笑みが消えた。
「……エレノア様」
「何かしら?」
「それは……私を責めていらっしゃるのですか?」
声が震えていた。
大きな瞳に、みるみる涙がたまっていく。
エレノアは不思議そうに首をかしげた。
「どうして?」
「だって……そんな言い方をなさるなんて……」
「私は、あなたがヴィンセント様と過ごすことを認めているだけよ」
「でも……!」
とうとう、リリアーナの頬を涙が伝った。
「私、お兄様を奪うつもりなんてないのに……!」
その言葉に、エレノアは思わず目を細めた。
奪うつもりはない。
それなら、昨夜はなぜ新婚の夫を自分の寝室に招き入れたのだろう。
なぜ、妻であるエレノアのもとへ帰さなかったのだろう。
問いただしたいことはいくらでもあった。
けれど、もうどうでもよかった。
「安心してちょうだい、リリアーナ様」
エレノアは静かに言った。
「私はもう、あなたとヴィンセント様の仲を邪魔するつもりはないわ」
「……え?」
「お二人が幸せなら、それで結構よ」
リリアーナは、呆然とエレノアを見つめていた。
そして、何か言いかけた、そのとき。
「リリアーナ!」
廊下から、ヴィンセントの声が響いた。
扉が開く。
ヴィンセントは、涙を流すリリアーナを見た瞬間、険しい表情になった。
「どうした! 何があった?」
「お兄様……!」
リリアーナは、まるで救いを求めるようにヴィンセントへ駆け寄った。
「私……エレノア様に嫌われてしまったみたいで……」
「何だと?」
ヴィンセントの冷たい視線が、エレノアに向けられた。
「エレノア。お前、リリアーナに何を言った?」
エレノアは、静かに微笑んだ。
「何も。お二人で仲良くお過ごしくださいと申し上げただけですわ」
「……何?」
「リリアーナ様は、それがお気に召さなかったようですけれど」
ヴィンセントは眉をひそめた。
リリアーナは慌てたように首を振った。
「違うの、お兄様! エレノア様は、私を責めていらっしゃるのよ……!」
エレノアは、二人を見つめた。
前の人生では、こんな場面になるたびに必死で弁解していた。
違います。
そんなつもりではありません。
どうか、誤解しないでください。
けれど、どれほど言葉を尽くしても、ヴィンセントは決して信じてくれなかった。
だから、今度は。
「ヴィンセント様」
エレノアはゆっくりと立ち上がった。
「ちょうどよいところにいらっしゃいましたわ」
「……何だ」
「私からも、ひとつお願いがございますの」
エレノアは微笑んだ。
「今夜から、私の寝室にはおいでにならないでくださいませ」
ヴィンセントの顔が、みるみる険しくなった。
「またその話か!」
「ええ。大切なことですから」
「いい加減にしろ、エレノア!」
その怒声に、リリアーナがびくりと肩を震わせた。
「お兄様、そんなに怒らないで……!」
ヴィンセントは、すぐにリリアーナを気遣うように肩を抱いた。
その姿を見て、エレノアは静かに息を吐いた。
ああ。
本当に、何も変わらない。
この人は、いつだってリリアーナだけを大切にする。
けれど、もう傷つく必要はない。
「では、私は失礼いたしますわ」
エレノアは二人に背を向けた。
「待て、エレノア!」
ヴィンセントの声が追いかけてくる。
だが、エレノアは振り返らなかった。
そのときだった。
「……お兄様」
背後で、リリアーナが小さくつぶやいた。
「エレノア様、もしかして……ほかに好きな方がいらっしゃるのではないかしら?」
エレノアの足が止まった。
「だって、結婚したばかりなのに、お兄様を拒むだなんて……。私、そんな理由しか思いつかなくて……」
リリアーナの声は、どこまでも無邪気だった。
けれど、その言葉が何を意味するのか。
エレノアには、痛いほどよくわかっていた。
そして、ヴィンセントの視線が、ゆっくりとエレノアに向けられた。
「……エレノア」
その声には、先ほどまでとは違う、冷たい怒りが宿っていた。
「お前、まさか……男がいるのか?」
「その格好で来たのか?」 翌朝、ヴィンセントはエレノアを見るなり顔をしかめた。 エレノアは思わず自分のドレスに目を落とした。 昨日から着替えていない。離れには侍女もおらず、持ち込んだ荷物もまだ開けられないままだった。「着替えを手伝ってくれる者がおりませんでしたので」「言い訳はいい。公爵夫人なら、もう少し身なりに気を遣え」 エレノアは唇を噛んだ。 昨夜、執事が届けてくれたのは燭台と毛布だけだった。 寝台には埃が積もっていて、とても横になれなかった。結局、椅子に毛布をかけ、ほとんど眠れないまま朝を迎えたのだ。「それで、今後の待遇についてお話があるとか」 エレノアが尋ねると、ヴィンセントは椅子に深く腰掛けた。「ああ。いつまでもあんな場所で暮らしたくはないだろう?」「当然です」「なら、話は簡単だ」 ヴィンセントは机の上に一枚の紙を置いた。「これに署名しろ」 エレノアは差し出された紙に目を通した。 そこには、今後は夫の意向に従い、公爵夫人としての務めを果たすことを誓う、と書かれていた。「……これは」「お前が約束を守るなら、元の部屋に戻してやる。侍女もつけよう」「夫の意向に従う、というのは?」「わかっているだろう。もう寝室で騒ぎを起こすなということだ」 エレノアは紙を机に戻した。「署名できません」 ヴィンセントの眉が跳ね上がった。「まだ強情を張るつもりか?」「私の意思を無視して寝室に押し入ることを、やめていただきたいだけです」「お前は俺の妻だぞ!」 ヴィンセントが机を叩いた。「跡継ぎを産むのが、お前の役目だろう!」「そのために、あの離れに閉じ込めたのですか?」「お前が素直に言うことを聞けば済む話だ」 エレノアは目の前の紙を見つめた。
日が暮れ始めても、誰も来なかった。 エレノアは離れの窓から、何度も本邸へ続く小道を眺めた。 執事は寝具を届けると言っていた。食事も運ばれてくるはずだった。 けれど、夕暮れの庭園には人影ひとつない。 窓辺に立ち続けているうちに、足が痛くなってきた。 椅子には埃が積もっている。仕方なくハンカチを敷いて腰を下ろしたものの、座面から舞い上がった埃に咳き込んでしまった。「……どうしましょう」 もう一度、寝室を見回す。 日が落ちれば、明かりも必要になる。けれど、燭台はあっても蝋燭が見当たらなかった。 このまま夜になったら、真っ暗な部屋で過ごすことになる。 そのとき、ようやく扉の開く音がした。「奥様、お食事をお持ちしました」 若い下働きの娘が、盆を抱えて立っていた。「ああ、よかった。あなた、少し待ってちょうだい」 エレノアは思わず駆け寄った。「寝具はまだ届いていないの。それに、この部屋のお掃除も……」「申し訳ございません。私はお食事を運ぶようにとしか」「では、ほかの方を呼んでいただける?」 娘は困ったように視線を落とした。「離れには、ほかの者を寄越さないようにと言われております」「……誰に?」「執事長でございます」 エレノアは言葉を失った。 娘は小さな卓の上に盆を置くと、慌ただしく頭を下げた。「それでは、失礼いたします」「待って!」 呼び止めると、娘はびくりと肩を震わせた。 エレノアはその様子に気づき、声を和らげた。「せめて、明かりを持ってきてもらえないかしら。夜になったら何も見えなくなってしまうわ」「……聞いてまいります」 娘はそう答え、逃げるように離れを出ていった。 卓に残されたのは、冷めかけたスープと硬いパンだった。 水の入った杯もひとつだけ。 エレノアは盆を見つめた。 食事を運んでくれた娘が悪いわけではない。 けれど、なぜこんなことになってしまったのだろう。 やがて窓の外が暗くなり、部屋の隅から闇が広がり始めた。 娘は戻ってこなかった。 エレノアは扉の近くに立ち、廊下へ目を凝らした。 暗闇の中で、どこかの木材がきしむ音がした。「……誰か?」 返事はない。 もう一度呼びかけようとしたとき、外から足音が聞こえた。 ようやく明かりを持ってきてくれたのだろうか。 エレノアは扉に駆け寄った。
「……ここで暮らせとおっしゃるの?」 エレノアは、目の前の建物を見上げた。 公爵邸の庭園の奥に建つ、古い離れだった。 外壁には蔦が絡まり、窓枠の塗装は剥がれている。屋根の一部には苔まで生えていた。「公爵閣下のご命令でございます」 執事は淡々と答えた。「奥様には、しばらくこちらで静養していただくようにと」「静養……?」 エレノアは思わず聞き返した。 どう見ても、人が療養するような建物ではない。 扉を開けると、かび臭い空気が流れ出してきた。 廊下には埃が積もり、壁際には蜘蛛の巣が張っている。窓は汚れで曇り、昼間だというのに薄暗かった。 寝室に案内されると、エレノアはとうとう言葉を失った。 寝台にはシーツもなく、天蓋には大きな蜘蛛の巣が張っていた。 古びた布をかぶせられた家具は、触れただけで埃が舞い上がりそうだった。「……お掃除は?」「急なご命令でしたので、準備が間に合いませんでした」「では、侍女を呼んでいただける?」「本邸の使用人は、こちらへ常駐いたしません」「……え?」 エレノアは執事を見つめた。「では、誰がこの部屋を片づけるの?」「必要なことがございましたら、お申しつけください」「誰に?」「お食事をお運びする者に、お伝えいただければ」 エレノアは言葉を失った。 水差しも、洗面道具もない。 暖炉には古い灰が残り、薪も用意されていなかった。「……今夜は、どうやって眠ればいいのかしら」「寝具は後ほどお届けいたします」 執事はそれだけ告げると、一礼して部屋を出ていった。 扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。 エレノアは、ひとり取り残された。 部屋を見回しても、座れる場所さえ見当たらない。 寝台は埃だらけで、椅子には蜘蛛の巣が張っている。 これまで、部屋が汚れていたことなど一度もなかった。 朝起きれば、侍女が洗面の支度を整えてくれた。夜には湯が用意され、寝台には清潔なシーツが敷かれていた。 そのどれもが、今はない。 エレノアは寝室から廊下へ出てみた。 けれど、どの部屋も同じように荒れ果てている。 呼び鈴を探しても見つからず、誰かの名前を呼んでみても返事はなかった。 どうしたらいいのだろう。 誰に頼めば、この部屋を使えるようにしてもらえるのだろう。 エレノアは途方に暮れた。 こんな場所で一晩
鍵が外れた。 エレノアは扉から後ずさった。 昨夜はテオドールが助けてくれた。けれど、今夜は誰もいない。「エレノア、椅子をどけろ」 扉の向こうから、ヴィンセントの声がした。「お断りいたします!」「いつまでそんな真似を続けるつもりだ!」 扉が強く押され、前に置いた椅子が床をこすった。 エレノアは慌てて寝台の反対側へ回った。 もう、逃げ道はない。 やがて椅子が押しのけられ、扉が開いた。「……ずいぶん手間をかけさせてくれたな」 ヴィンセントが入ってきた。 背後には、鍵を開けた使用人が控えている。「下がれ」 ヴィンセントが命じると、使用人は頭を下げて立ち去った。 扉が閉まる。「さて、エレノア」 夫はゆっくりと近づいてきた。「今夜こそ、妻としての務めを果たしてもらう」「嫌です」「まだ言うか!」 ヴィンセントが腕を伸ばした。 エレノアは身をかわし、化粧台のそばに逃れた。「近づかないで!」「私を何だと思っている!」「私の言葉を聞いてくださらない方だと思っています!」 ヴィンセントの顔が怒りに染まった。「お前は本当に、どうかしてしまったようだな!」 そのとき、エレノアの指先が化粧台の上の小瓶に触れた。 香水瓶だった。 エレノアはそれをつかみ、床に投げつけた。 甲高い音とともに、瓶が砕け散る。「何をする!」「それ以上近づかないでください!」 エレノアは震える声で叫んだ。「これ以上無理強いなさるなら、窓を開けて助けを呼びます!」「……何?」「使用人にも、庭にいる者にも聞こえるように叫びます。公爵様が妻に何をなさろうとしているのか、皆に知っていただきます!」 ヴィンセントの動きが止まった。 彼が恐れているのは、妻が傷つくことではない。 自分の評判が傷つくことなのだ。「……私に恥をかかせるつもりか」「あなたが何もなさらなければ、叫ぶ必要はございません」 ヴィンセントはしばらくエレノアをにらみつけていた。 やがて、忌々しげに舌打ちした。「勝手にしろ!」 乱暴に扉を開け、部屋を出ていく。 エレノアは、その場に崩れ落ちた。 怖かった。 けれど、今夜も守り抜いた。 あと一年。 この調子で、本当に乗り切れるのだろうか。 ◇ 翌朝、エレノアのもとに執事が訪れた。「奥様。公爵閣下より、お伝
「明日の夜は、誰もお前を助けには来ない」 ヴィンセントの言葉に、エレノアは血の気が引くのを感じた。 この男は、何をするつもりなのだろう。 妻が拒んでいることを知りながら、護衛騎士を追い出し、誰にも邪魔されない状況を作ろうとしている。 しかも、それを隠そうともしない。「……私が嫌だと申し上げても、寝室にいらっしゃるおつもりですか?」「当然だ。お前は私の妻なのだから」「それは、夫婦だからという理由で、私の意思を無視してもいいということですか?」「またその話か」 ヴィンセントはうんざりしたように眉をひそめた。「いつまでも子供じみたことを言うな。結婚した以上、妻には果たすべき務めがある」 エレノアは、つかまれた腕に残る赤い痕を見下ろした。 昨夜の恐怖が、まだ身体に残っている。 それなのに、この男は何ひとつ反省していない。「……わかりました」 エレノアは静かに答えた。 ヴィンセントが満足そうに口元を緩める。「ようやく理解したか」「いいえ。あなたが私の言葉を聞くつもりがないことを、理解しただけです」「何だと?」「これ以上お話ししても無駄ですわ」 エレノアは夫から目をそらさなかった。「ですが、私の答えは変わりません」 ヴィンセントの表情が再び険しくなった。「……勝手にしろ。明日になれば、嫌でも自分の立場を思い知るだろう」 そう言い捨てると、彼は部屋を出ていった。 扉が閉まる。 エレノアは、その場に立ち尽くした。 怖くないと言えば、嘘になる。 けれど、ここで屈するわけにはいかなかった。 あと一年。 夫婦関係を持たずに一年を過ごせば、婚姻無効を申し立てることができる。 そのために、今度こそ自分の身体を守り抜かなければならない。 ◇「申し訳ございません、エレノア様」 テオドールは深く頭を下げた。 彼の部屋には、すでに荷物がまとめられていた。「私のせいで、このようなことに……」「あなたのせいではないわ」 エレノアは首を振った。「悪いのはヴィンセント様よ。あなたは私を守ってくれただけ」「ですが、結果としておそばを離れることになってしまいました」 テオドールの声には、悔しさがにじんでいた。 エレノアは、彼の手元に置かれた旅行鞄を見つめた。 幼い頃から、テオドールはいつもそばにいてくれた。 父親の領
翌朝、エレノアは父親に宛てた手紙を封筒に入れ、封蝋を施した。 昨夜、ヴィンセントがリリアーナと庭園の木陰へ消えていった光景を思い出す。 前の人生なら、きっと一晩中泣いていただろう。 けれど、今は違う。 あの二人が何をしていようと、もう構わない。 問題は、ヴィンセントがエレノアを放っておいてくれないことだった。 妻としての務めを果たせと怒鳴り、拒めば力ずくで従わせようとする。 あの男と同じ屋敷で、あと一年を過ごさなくてはならない。 そう考えるだけで、気が重かった。「この手紙を、実家へ送ってちょうだい」 エレノアは、朝の支度を手伝っていた侍女に封筒を渡した。「承知いたしました、奥様」「なるべく早くお願いね」「はい。すぐに執事へお渡しいたします」 侍女は丁寧に頭を下げ、部屋を出ていった。 エレノアは、ほっと息をついた。 父親は、娘の結婚を心から喜んでくれていた。 まさか、その結婚がこんなことになるとは思っていないだろう。 前の人生では、父親に夫婦の問題を打ち明けたことなど一度もなかった。 結婚した以上、夫に従うのが妻の務め。 愛されなくても、我慢するのが当然。 そう信じていたからだ。 けれど、今は違う。 父親が事情を知れば、きっと力になってくれる。 少なくとも、ヴィンセントが一方的に夫婦の務めを強要することについて、相談できるはずだった。 エレノアは窓の外を見つめた。 朝日を浴びた庭園は、昨夜の出来事など何もなかったかのように美しかった。 ◇「ヴァレンティア伯爵宛ての手紙?」 執務室で書類に目を通していたヴィンセントは、執事の言葉に顔を上げた。「はい。奥様からお預かりいたしました」 執事が封筒を差し出す。 差出人には、エレノアの名前が記されていた。 ヴィンセントの眉間に、深い皺が刻まれる。「……何を書くつもりだ?」「内容までは存じません」「貸せ」 ヴィンセントは封筒を受け取ると、ためらいもなく封を破った。 執事は一瞬だけ目を伏せたが、何も言わなかった。 手紙には、結婚初夜からの出来事が簡潔に記されていた。 夫が義妹の部屋で夜を過ごしたこと。 夫婦の寝室を共にするよう求められたが、拒絶したこと。 そして、昨夜は無理やり寝台へ連れていかれそうになり、護衛騎士に助けられたこと。 最後に